早朝、私はすっかり軽くなった財布を胸に、リディアをホワイトランへ送り返すことにした。彼女には、私が確かにハイ・フロスガーまで行ったことを首長に報告するという大義名分を与えておいたが、懐事情はばれなかっただろうな。帰りの分の弁当もしっかり持たせてやったのだから。
それにしても従士たる者、私兵ひとりも養えないのははなはだ情けない話だ。
再び七千階段登山だ。途中、またあの狩人とすれ違った。
彼は私がすっかりこの山の魅力に取りつかれたと思っているようだ。実はグレイビアードに召喚されたらしいと話すと、イヴァルステッドの衛兵同様、彼も驚いた。
ここだ。以前の登山でフロスト・トロールがいた場所だ。
今日もいた。
私は例の声の力を使ってみた。自分の声が空気の塊となって相手に襲いかかったのには自分でも驚いたが、奴は少し足元をよろめかせただけだ。全く効いていない。
にわか仕込みどころか、いつの間にか使えるようになっていた力など、結局ものの役には立たないのか。
トロールに追われるうち、とうとうハイ・フロスガーまで来てしまった。
前回着た時、修道院の扉は固く閉ざされたいたのだが、今回はどうだろうか。
扉は押すだけで軽く開いた。私は修道院に飛び込んだ。続いて招かれざるトロールも。
慌てふためく私の正面で、薄暗い修道院の奥から大音響とともに輝く冷気が放たれた。
それと同時に、暗がりからローブ姿の僧が数人飛び出してくる。厚い石壁を震わせて、修道院内にいくつもの「声」が響き渡った。
あっけにとられる私の前で、「声」が八方からトロールに放たれる。それは氷に変わり炎に変わり、風に変わる。
トロールは何の反撃もできないまま「声」にもみくちゃにされて横たわった。
……恐ろしい。これがグレイビアードの声の力か。彼らがいかなる巡礼者とも会わず修道院の扉を閉ざしている理由が、よく分かった。
トロールを眺める私の背後に、グレイビアードの一人が声をかけた。
私もトロールと同じく氷漬けにされ炎に焼かれ風で吹っ飛ばされると思ったが、大丈夫だ。
彼は自分をグレイビアードの声と名乗った。
なるほど。他のグレイビアード達が声を出せば、面前の者はトロールと同じ末路をたどるが、彼だけは声の力を抑えることができるらしい。
抑えてようやく凡人の鼓膜を破らずに会話が可能というわけか。
それでもアーンゲール師の声は、私を腹の底から揺さぶるように響く。
彼らは私がドラゴンボーンであることを知って呼び寄せた。西の監視塔でドラゴンの力を吸い取ったのを感じていたのだろう。
声の力自体は長年の鍛錬で出せるようになる者もいるが、ドラゴンボーンはなんの努力もせずともそれが出来るという。
容易に手に入れた力は安易に使われがちだ。彼らはそれを心配して、私に声の道を教えるために召喚したらしい。
彼らのレッスンはその場で始まった。
私も自分の持つ声の力が常人以上のものとはいえ、トロール一匹をよろめかせる程度のささやかなものであるのを知ったばかりだ。
ブリーク・フォール墓地で私が壁から読み取ったドラゴン語は「力」を意味するという。
彼らはその言葉を、「均衡」を意味する言葉で研ぎ澄ませと教えてくれた。
グレイビアードの一人が床に焼き付けたドラゴン文字を、私はすぐに理解した。
「均衡」の言葉を授けてくれたグレイビアードから、光る何かが放出される。ドラゴン退治の時と同じだ。ドラゴンから得た力ほど強くはないが、どうやら私はこの老人の持つ「均衡」の知識を本当に吸収してしまったらしい。
グレイビアード達は私がドラゴンボーンであるのをさらに確信したようだ。
今度は全く新しい力を私が学べるかどうか、見てみようという。ドラゴンボーンなら、いともたやすく学べるはずだと。
外へ出ろというが、外は吹雪だったはずだ。
ところがアーンゲール師が空に向かって声を放つ。
瞬く間に吹雪がやみ、青い午後の空が広がる。声は雲さえも追い払えるらしい。
新しい言葉は、「疾風」だ。
言葉通り、風のように早く移動ができるらしい。
向こうの鉄柵が開いたら、旋風の疾走で駆け抜けろと言うが、あの向こうは崖である。少しでも勢いがよすぎたら、真っ逆さまではないのか。
うお! 早い!
しかしこれは役に立つのか。距離感を誤って、壁に激突して失神するか、高い所から落ちて骨を折るかの未来しか見えないぞ。
私の不安をよそに、グレイビアード達は覚えのいい弟子に驚いている。
彼らは最後の試練を私に告げた。
声の道の創始者の遺品を、霊廟からとってこいという。
霊廟? また墓に潜らなければならないのか。しかしよいのだろうか。まあ、創始者へ挨拶に行くようなものか。墓参りなら霊廟に足を踏み入れても冒涜にはあたらないだろう。
修道院には四人のグレイビアード達の姿しかない。しかしアーンゲールによると、長のパーサーナックスが頂上に住んでいるらしい。
その名は七千階段の標章で読んだ。たしかキナレスに頼まれて、この世で初めて人間に声を教えた人物だ。……まだ存命なのか。
「声の道」は声を使うための思想信条で、創始者はユルゲン・ウィンドコーラー。パーサーナックスは声の力そのものの師匠ということか。
一通りの入門の儀式が終わったところで、グレイビアード達は日常の礼拝へと戻っていった。
時刻は午後6時過ぎ。今から山を下りるのは、トロールが退治されたとはいえ危険かもしれぬ。
どこか廊下の端にでも寝床を借りようか。
修道院内をあてどなく徘徊していると、グレイビアード達の居住棟を見つけた。
粗末なテーブルに質素な食事が並んでいる。巡礼者達の供物は役に立っているようだ。私も彼らが雲や霞を食って生きているのではないと知って、少し安心した。
パーサーナックスはどうなのだろうか。神話時代からいる相手に、何を食って生きているのかなど、愚問かもしれないな。
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